タウン誌Acoreおおみや

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ACジャパンのCM広告「行為の意味」 『こころ』はだれにもみえないけれど……。震災の日から心に届いた宮澤章二の言葉。

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画・宮澤恵里子 「宮澤章二」


「こころ」はだれにもみえないけれど……。

震災の日から心に届いた宮澤章二の言葉



「あの日を境にして何もかもが変わってしまったような気がする」という心境の人がかなりいる。想像を絶する被害をもたらした東日本大震災。3月11日に経験した衝撃と傷みの大きさに、まだ現実感がついていかないのである。
 空前の出来事に人々はほとんど言葉を失ったが、被災地の報道の合間にテレビで流れた一片の詩には耳を傾けた。それがまた胸に滲みた。

 
 「こころ」は
 だれにも見えないけれど
 「こころづかい」は見える
 「思い」は
 見えないけれど
 「思いやり」は
 だれにでも見える


 ACジャパンの意見広告ですっかりなじみとなったこの言葉は、埼玉が生んだ詩人・宮澤章二の『行為の意味』から抜粋要約したフレーズ。その語りに車中で妊婦に席を譲る女性を見かけ、自ら街でお年寄りの手を引く高校生の光景が描かれている。
 大惨事に遭遇しながら節度を失わず、悲しみに堪えて譲り合う被災者の態度に驚きと称賛の声が海外から寄せられた。そして私たち日本人にも本来のあるべき姿を思い起こさせた。
 そんな潤いのある心情と宮澤章二が形にした人間の端正な愛とが、共鳴して視聴者に届いたのだろう。「震災の日からやさしい人の行為が増えた」「車内でがむしゃらに席を奪おうとする人も少なくなった」「AC(宮澤章二や金子みすずの言葉)はとてもいいじゃないか」という声を耳にしたし、被災地への応援の気持ちにそれがつながっているようにも見える。
 『アコレおおみや』の2010年秋号に「詩人の魂=宮澤章二」と題して父のこの詩を紹介したばかり。「大震災が東北関東を襲い、『行為の意味』のフレーズが全国にこうして流れるとは思いもしなかった」と宮澤章二の長男で、本誌編集人の宮澤鏡一は感慨を新たにしている。
 「思い」や「こころ」がこの時代に最も大切なものであると再認識されたのかもしれない。宮澤章二をもっと知りたい、詩をもっと読みたいという人が増えて、詩集『行為の意味 青春前期のきみたちに』を出版したごま書房新社に注文が殺到しているという。
 さいたま(旧大宮)を愛した昭和の詩人・宮澤章二の風貌を今一度伝えることがタイムリーであり、この未曾有の災禍に向き合う人々へのメッセージにもなるだろう。小さな評伝を綴って、末尾に『行為の意味』全文を掲げておきたい。


(文・伊藤悠可)



行為の意味

-----あなたの<こころ>はどんな形ですか
と ひとに聞かれても答えようがない
自分にも他人にも<こころ>は見えない
けれど ほんとうに見えないのであろうか

確かに<こころ>はだれにも見えない
けれど<こころづかい>は見えるのだ
それは 人に対する積極的な行為だから

同じように胸の中の<思い>は見えない
けれど<思いやり>はだれにでも見える
それも人に対する積極的な行為だから

あたたかい心が あたたかい行為になり
やさしい思いが やさしい行為になるとき
<心>も<思い>も 初めて美しく生きる
-----それは 人が人として生きることだ





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孤高の詩人宮澤章二 30代の頃


 宮澤章二は大正八年に埼玉県羽生市に生まれ、平成十七年春愛する郷土に没した詩人だった。世にある〈自称詩人〉ではない。詩業で生涯を断走した人である。光を謳ったほか風を好んでよみ、いつの間にか「風と光の詩人」と呼ばれた。
 多くの仕事をした。誰でも口ずさむ『ジングルベル』は彼の作詩。童謡や歌曲の創作も数限りない。学校にたくさんの校歌を贈った。作詞した校歌は埼玉県内外の小中高校三百にのぼる。
 誰にも真似できない、と文人仲間を驚嘆させる業績だった。「生き方そのものに手を抜かなかった人。童謡、校歌も全身全霊で立ち向かった仕事」と愛弟子の詩人・西尾君子は語る。
研究家の間では「東洋的で透明性の極めて高い詩作は、二十一世紀の文学への新しい提言」(小倉健一氏)と評される宮澤作品。彼が残した現代詩の位置づけこれから後学の者の仕事になる。
「枯れ野」を原風景として描き「石」「骨」「死生」を純粋詩にぶつけながら、童謡で「ひばりのかあさん、たまごをうむよ」と童心の慈愛を注いだ。そのような幅を持つ宮澤章二はどんな人だったのか。語られる詩人の風貌はいくつもあるが、孤高な生身に触れえた人から伝わるのは、私たちが忘れかけ、遠くに想いはじめた〈昭和の空気〉にほかならない。


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坂戸が当時を偲ばせるまさに三丁目の世界 妻と次男新樹・愛犬と


熟年層のノスタルジーを掻き立てた映画『ALWAYS 三丁目の夕陽』が評判だった。そこでは徐々に背丈を伸ばす東京タワーが象徴として描かれた。携帯もパソコンもなかったのにすべてが楽しかった時代。タワーは三十三年に完成し夕陽に照らされた姿がエピローグである。
 登場人物はよく笑いよく怒った。子供たちはよく遊びよく泣いた。確かにその通りであった。近所に頑固親父がいた。母親の声はどこの家でも大きかった。「高度成長」などと名付けたのは後の時代である。皆がむしゃらに働いた。その町に上に大きな太陽があった。
 映画の時代設定と寸分違わない昭和三十二年、宮澤は後年「大きな太陽のまち」と書くことになる原点の地、大宮の吉野町に東京から移り住んだ。三十八歳のときである。
「ここは、東京の近郊にある地方都市の、そのまた郊外地域で、いわゆる首都圏の中にありますけれど、近くには、雑木林や麦畑やお茶の畑が、まだあちらこちらに残っており、空気と新緑のきれいな場所です」と、自著『童謡の中の人生』(まみず新書)で書き留めている。
「以前の東京・町屋の雑踏と比べると別世界。新居になった県営住宅の一角を除いて、ただ畑と野ッ原が広がるだけ。向こうに宮原小学校の校舎が見えました。こんな田舎に来たんだわ、と思いました」と妻・房子が五十年前を回想する。長男・鏡一が九つ、次男の新樹が五つだった。
 宮澤は大正八年、羽生市弥勒に生まれた。実家は代々の米穀肥料商。小学校二年で東京・日本橋箱崎に移り旧制府立高校を経て、昭和十八年東京大学文学部美学科を卒業している。
在学中に房子と結婚。二十二年に埼玉県不動岡高校教諭として赴任したが四年でやめてしまった。「四六時中、詩がいつも頭にあったから学校の時間割通りの教師生活はきつかったのでは」と房子はいう。


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自宅の縁側にて


宮澤がいつ詩魂に目覚めたのかはわからない。が、時代の雰囲気を読み言葉で大衆に訴える俊才ぶりは早くから発揮された。終戦となる二十年冬、文部省は学校の卒業式で歌われる「蛍の光」が〈敵国〉のメロディーという理由で廃止を決定。日本人による卒業歌を公募したことがあるが、入選したのは宮澤章二の『ハナカオル』(村上利三郎曲)だった。
『風すさぶ行く手の道も 望みもちたゆまず常に』という歌詞には戦時下の厳しい空気が織り込まれている。一回だけ歌われた昭和史に刻まれる動乱の卒業歌である。
「肺気腫で兵役の経験はありませんが、中島飛行場に徴用で出され苦労していました。戦前の気骨のある誠実な人ですよ。でもあの人は根はやさしいくせにすぐカッとして怒る。十五歳で母を亡くし体も弱かったから、親戚が過保護に育てたのよ、きっと」と房子は亡き夫の思い出に目を細める。
 終戦後も夫は町屋の自宅でブラブラしていた。比喩ではなく食べるのが困難な時世に夫は務め先を探すでもなかった。「今ならニートよ」と笑う房子だが、あの時ほど生活に危機感を募らせたことはなかった。「若さがあったから出来たことですね。責任感のある人だったから、いいわ一緒に苦労するわ」と腹を括ったという。
 周りからブラブラしているように見えたが、宮澤が「詩人として生きる」決心を固めたのはどうやらその時期だったにちがいない。
 孤独な詩作は続けられていた。「枯れ野のバスは 夕陽の花輪に飾られて走った」ではじまる初期抒情の代表作『枯れ野の花嫁』はこの頃、宮澤の胸内に鮮明な心象が映されていたのではないか。晩年に至るまで「私の詩情は、枯れ野から出発して、また枯れ野に返るようです」と書き綴っているその原風景である。


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昭和34年 次男 新樹


 妻が語るように夫・宮澤章二は、生活者としては〈静〉に見えたが、実際は猛烈に働いた人だった。戦後まもなく毎日新聞で「うそクラブ」が連載された。世相を的確にとらえユーモアのある鋭利な風刺精神で描写する投稿欄だが、まずこの名物コーナーの選者をつとめた。紅白歌合戦が始まると国民はこぞってラジオに耳を傾けた。ピーピーガーガーと雑音のほうが多いラジオだったが、大晦日の夜、「紅白」は日本人の大いなる癒しだった。『りんごの歌』等が暗い世相を吹き飛ばした。NHKは国民の渇望する歌番組『国民歌謡』を立ち上げ、宮澤をなくてはならない作詞家として招聘した。
 五木寛之が「当時の歌はよかった」と著書にあふれる日本人の郷愁を綴っている。宮澤は大中恩、宮原禎次、芥川也寸志など第一線の作曲家とコンビで名歌をたくさん生んだ。中田喜直が曲をつけ、倍賞千恵子が歌った『バラ色の街で』は一世を風靡した。
 「父の背骨には常に純粋詩のことがあったでしょう。けれど僕たちが生まれ、ちゃんと家族は食べさせなきゃいけない。詩業の周辺でも全力投球していたのです」と次男の新樹は言う。勿論、勤め人ではない父の生活は子供の目には風変わりに映ることもあった。「ふだん東京・愛宕にあったNHKに通っていたが、時折ひょいと旅に出かけていく。家にいる時は終始、毅然としていた」(長男・鏡一)。詩のインスピレーションをまさぐる旅もあったが、各地の学校から依頼された「校歌」の取材旅行も多かった。
 宮澤作詞の校歌は埼玉県下で二百校、県外で百校もある。宮城、静岡、長野、そして新潟まで足を運んだ。机に向かってひねり出した詞は一つもない。必ず学校とその土地を訪ね、自然をながめ町や村を歩き、風の匂いをかぎとって言葉を紡いだ。「頭でつくるものじゃないと父は思っていた」
(次男・新樹)。

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当時一世を風靡した「バラ色の街で」のレコードジャケット



父が思索に入ると
誰も近寄れない


 インターネットのブログにこんな書き込みがある。「同窓会で初めて知りました。今でもジーンと来る母校の校歌はあの宮澤章二が作ってくれていたんですね」。魂のこもった詞は卒業生OBの心をいつまでも打つ。
 家の中では恐い親父だった。一人で書斎に閉じ籠もるだけなのに、背広にネクタイを絞めていた。仕事に対する気構えだった。「思えば二十四時間、思索が仕事ですからね。ああ、親父がこのモードに入っているなという時は、あまり近寄れませんでした」(長男・鏡一)。弟の新樹も兄の肩ごしに恐い父の顔を見ていた。
「自分なりに心に緩急をつけて仕事をしていたとは思いますが、僕等にはそれがわからない。思索をやめて町内を散歩したり、時にはパチンコに出かけていました。ある日、庭先で怒鳴り声がしたので出ていくと、兄が泣いています。思索の壁にぶちあたり、きっとパチンコに負けて帰ってきたんです。そうとは知らず、兄がはしゃいで父に声をかけたらしい」
 頑固おやじは徹底していた。食事時はしゃべるものではない。「黙って戴くもの」だからシーンと家族は食べた。姿勢が悪いと雷が落ちた。リビングでバラエティ番組を見ながら家族団欒という現代風とはかけ離れていた。酒はやらず煙草は缶のピースをくゆらしていた。


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自宅の仕事場にて


カミナリ親父が泣いた日



 宮澤は外でも恐かった。大宮市が主宰する「詩の教室」の生徒だった西尾君子は「教えるほうも教わる人間も真剣勝負。文学をちょっとかじりたいという態度では教室に入れませんでした。適当な質問をしたら怖ろしいお顔になる」と当時を振り返る。
 埼玉新聞文化部長の時代から親交のある飯島正治は、もう一つの印象を持っている。
「立ち居振る舞いがきれいでした。いつも背筋が伸びていました。是非をはっきりさせる人。そこが恐さにつながっていたのかもしれません。大変な紳士です。しかし人間性は温かく魅力がありました」
取材や放送局の用がなければいつも家にいた。書斎の床は本で埋まっていた。グアム島の横井庄一さんのように、机と椅子の部分だけが洞窟の穴になっていた。原稿用紙は銀座の伊東屋製の取り寄せだった。
しばしば家族に雷を落とし、声が向こう三軒まで響きわたった。そんなカミナリ親父が一度だけ泣いたことがある。鏡一の結婚式披露宴だった。人前も憚らずボロボロ涙を流すので周囲がびっくりしたという。
宮澤の硬骨ぶりは終生変わらなかったが、孫が生まれてからは好々爺を発揮している。
「小学生の頃、遊びに来た同級生の女の子を説教するのは困ったけれど、おじいちゃんは怖くてやさしかった。仕事の合間に『いくぞ』と声をかけられ、必ず上尾のまるひろ百貨店に遊びに行きました。買ってくれる玩具はゴジラなど男の子向け。デパートのカフェではプリンパフェを頼んでくれた。私を連れ出すときはいつも唐突で、夜はいきなりおんぶされ近所の児童公園に。私はブランコ。おじいちゃんは空を眺めていたっけ」
こう語る孫娘の恵理子も美大を卒業し社会人として歩きだした。


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宮澤兄(後)弟(中)と近所のともだち


詩人は人々の感情に
型を与える職人



 いわゆる詩人の出無精で、仕事場は吉野町の自宅中心だったが、「この土地によほど愛着があったのだろう」と宮澤を知る人は言う。空気と新緑のきれいな土地が好きだったのだ。
 詩人の決意、生活者として根を下ろす覚悟は平和で明るい土地柄が支えてくれたのだろう。移り住んだ新天地でほのぼのとした歌が生まれている。


 知らない子だけど
 わらったよ
 かきねの そばで
 わらったよ



 庭で遊ぶわが子のところへ「よその子」がやってきて知らない子同士が仲良くしている、という無垢な情景。長く全国の小学校で歌い継がれた童謡『知らない子』(大中恩作曲)は、吉野町の処女作と見る。
 「ああ、僕たちもそうだった」という人は、〈三丁目の夕陽〉世代であろう。日本のどこにでもあった昭和三十年代の一コマ。「垣根の垣根の曲がり角」と歌う唱歌『たき火』のイメージと同一だ。互いの名前など知らなくてもいい、低い垣根を超えて子供たちはすぐ仲間になった。
 『知らない子』の子供の情景は詞にはないが、そこに確かな陽光が降り注いでいる。宮澤がこよなく愛しつづけた大宮の風と光の原点を髣髴させる。
 大宮に引っ越してきた人々は、ここが晴天のすこぶる多い町だということを実感する。例えば春まだき、枯葉敷く大宮公園の木漏れ日を浴びたときの美しさ。光彩が随所に満ちた地を抱きしめたくなる。
 宮澤はときに「大宮という大きな太陽のまち」と讃えながら「氷川の森のかがやき」と謳って愛する土地をまぶしく飾ってくれた。詩人は愛郷のもやもやした感情にしっかり型を与える職人でもあった。
 宮澤章二という詩人が教育委員長を引き受け政治家を応援したというエピソードも、ひとえに誰よりも強い〈郷土愛〉からではなかったか。


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